なんだろう、俺の発見伝

タイトルは友人の案。

「車輪の下」を読んだ雑感

はじめに

この本は高校2年の時に読んだことがあったが、それから長らく実家の本棚の隅っこで埃をかぶらせていていた。今回読書会の題材に使われるにいたり、年末帰省のころに実家の自分の部屋から取り出して、また読んだのだった。なぜいきなり感想なんか書こうかとしているかというと、【告知】2014年1月11日(土曜日)にウェブ読書会やります - 読書会・映画会の成果報告ブログ(仮)
というようなことをいつもの三人で企んでみたので、「じゃあ各人感想書いてきてちょ」ということになり、こいつを書いている。三人の中で一番最後で、しかも読書会当日の6時間前にこれを書き始めているんだから愚鈍これ極まりというところだ。そんなバカモノの雑感をここではじめるとしよう。
これを書く前に他の人はどんな感じで書いているのかしらんと、多少人のエントリーと読んでみ、ああそっちのほう書くんだ、と思ったので自分は自分なりに下手くそにキャンパスを塗りつぶしてみようと思う。


本のあらすじ

車輪の下 (新潮文庫)

車輪の下 (新潮文庫)

趣味も何もかも捨てたかのような猛烈な勉強と心身の疲労の末、優秀な成績で神学校に入ったハンス少年は一人の強烈な個性を持った生徒と出会う。彼と友人になる中で、ハンスは身の回りの物事に疑問を抱くようになる。苛烈な教師陣の矯正や神学校以前からの頭痛、友人ハイルナ―が神学校から去ったことなど様々な心情をゆさぶされる物事によって彼は勉学を放棄し、周りから見て、模範的な生徒ではなくなった。そしてついに神学校をやめてしまう。まだ自らが「子供」だったころを回顧しつつ、ハンスは地元の街工場で働くようになる。友人が初給与を貰った日にいっしょに夜の街へ繰り出した彼は泥酔の末、翌日に冷たくなって川に流れていた。少年は溺死した。


以上自分で書いたあらすじ

高校二年のときに読んだときの感想

正月に叔父さんといっしょに飲みにいくことがあったが、その時この本を持って行ってたので、その話題となり、「途中までしか読んでないけど、内容暗いよね」という感想を叔父さんから聞いた。前に家族で「車輪の下」が話題に出たときも「(雰囲気)暗い小説だよねー」というのが両親の感想だった。それにもれず当時の自分の印象としては「暗い」というのしかなかった。読んだ後に何かよくわからないが、つらくなり、一週間はそれを引きずって生活していたことをうっすら覚えている。その高校2年の時は、いろいろ自分というものを自覚しだした時期であり、作中のハイルナ―のような友人こそいないが、ハンスと似ている点を認識していた。一日中ほぼ喋らずに生活していた、高校2年時の苦痛を、防衛機制の一種、ハンスと「同一視」をしようとしていた。こいつとおれはいっしょだと。だが、ハンスといっしょだといっても、彼は死んでしまうのだった。じゃあ自分も同じく川に流されるか木に首吊って死ぬのかという問題にも悩まされた。まあ自分がどうかと悩むよりも「ハンスがかわいそうだ」という哀れみの気持ちの方が強かったので、社会につぶされてしまう人間はそんな道を辿らなければならないのか、とただ嘆いていただった。「少年よ、これが本当の社会だ!」ととある映画のキャッチコピーのように、その強制的なものに圧倒されもした。圧倒され、脅迫され、踏みにじられ、何か漠然と信じていたすべてに裏切られたような気さえ起こした。と同時に小さな反発として「でも」「それでも俺は」と心の中で小さく呟いていたことをよく覚えている。おそらくガンダムSEEDキラ・ヤマト並に「僕は」と主語と助詞のみを繰り返していた。というくらい、「影響を与えられた本」と意味付けできたのは、ようやく影響が薄れてきた頃だった。

現在読んだ時の感想

では今はどうかというと、ちょっとそっとじゃ表現できない程度には多義的な印象を持ってしまっている。例えばこの本を教師が読むとどうなるか。どうなるんだろう。少しは生徒に対する思いも変わるだろうか、変わらないだろうか。「教育」をどのように捉えるだろうか。またハンスが神学校からドロップアウトするというのは、現実問題の不登校と置き換えて考えることもできる。少なくとも私の中学、高校では不登校は、学校という小さなコミュニティ内の、生徒の社会的な死みたいなものだった。ハンスの問題は、ハンスだけが持っている問題ではない。私自身小学校の給食が酷く事務的な「俺たちを生かすための作業としての食事」として思ってしまい、後何日こんな日が続くのかとノイローゼ気味になり、高校では家に帰って「ただいま」と言うまで、朝に家を出てから誰とも会話をしてなかった事に気づいて、どうしようもない気持ちになったりもし、いくつかの教科に対し、なぜこんな勉強をしなくちゃならないんだと思ったことなど数知れない。そのようなことの類は大小あれ誰もが持っているようなことだと思う。
だから周りの友達が教師になろうとしていることを語っているとき、卑怯にも私は「こいつがハンスを壊しはしないだろうか」と内心思っている事が少なくない。ハンスはいつどのような理由で心を傷めるかなんか誰にもわからない。それにたった一冊の本を読んだだけで色々とやばくなった自分を鑑みただけでもわかることだった、僕には。
少し、高校の時の自分に連られた感想を先に出してしまったが、まず第一の印象としてヘッセの文章の美しさをあげる。高校生の自分では「一文が長いな」くらいにしか感じなかったが、再び読んでその秀麗さに気づき、印象的な文章に印をと、ドッグイヤーを付けていたが、最終的にこうなった。

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汚い(小並感)
でも自分の血肉とするためなら、いくらでも線を引いたり、メモを書いたり汚したりしまっても構わないというのが私の読書観なので、このくらいは茶飯事だ。とにかくヘッセの文章がきれいで素敵だなと思ったので、「車輪の下」以外の作品も読みたいとまず思った。文章が叙情的で、詩的で、声に出して読んだ時に、一文が長くても休符を打ちやすい文章だった。これもひとえに翻訳の髙橋健二の力もあるだろうし、調べてみるとドイツ文学者らしく、この人の作品も読んでみたら面白いかもしれない。というところでその文章のキレイさを紹介するため、また次につなげるための文章を1つ引用する。

内気な娘のように、だれか自分より強い勇気のある人が自分を連れに来て、ひっぱって行き、いやおうなしに幸福にしてくれたらと、彼はじっとすわって待っていた。 p86

これは神学校での生活が始まって間もないころのハンスのまだ得ぬ友達への期待を表した文章だ。ざっくりとありていに言えばコミュ障という一言に尽きる。そのコミュ障にできた友人がハイルナーという強烈な個性を持つ人間だった。

だがハイルナーも

彼はだれか自分の心をうちあけることの出来る人、自分のいうことを傾聴してくれる人、自分を嘆賞してくれう人が必要だった。(中略)この若い詩人は根拠の無い多少甘ったれた憂鬱病の発作に悩んだ。

とあるように、ざっくりとありていに言えばメンヘラだった。コミュ障とメンヘラ、そんな二人が依存関係になるのは自明の理で、いろいろあったが本の通りそうなった。

依存関係と容易くいっても彼らのなかでは友情であり、またそれを少し越えたところもあったというのも小説の中にかいてあるところだ。
そこでげろしゃぶ (id:grshb)くんがブログの中で引用している箇所を使わしてもらうと

車輪の下』は、事実どおりではないが、主人公ハンスに母親がいないという点、ヘッセは母親によって絶望から立ち直ることができたが、ハンスはその親身な支えがないために自滅してしまうという点、その差を別にすれば、またヘッセの性情と運命が小説では二人の少年に、すなわち魚釣りを愛する素朴な自然児ハンスと、詩を作る早熟な文芸家ハイルナーとに分かたれているという違いを別にすれば、だいたい自叙伝的である

とあるようにヘッセの中に謂わば2つの人格があった点を挙げてみたい。この二面性は別にヘッセ特有のものではないことはコミュ障の人には分かる話だろう。メンヘラはちょっと自分の考えに凝り固まっていると思うので聞き逃していて構いません。
だいたい、一個の人間に1つの「キャラ」というのはあまりにもアンパンマン的な話だ。正義の人はずっと正義で、悪人はずっと悪人だということなんてありゃしないということは、少し何か物の本(ガンダムでも可)を読めばわかることで、皆それぞれ思い思いの考えの上で動く。嘘をつくなと教わった人間でも状況によれば多少の方便を言う。ここで一つ問を投じたいのだが、例えば「俺ってSだから」「わたし実はMなのー」的なポジション論を振りかざして「お前Mっぽいよな」とか言ってきて高校の時いじめてきた〇〇くん!!おまえだ!!……ゴホゴホ、と少々熱くなったが、そういうあれだ。つまり、学校の中で、教室の中で、「生徒」という服を着せられた人間の、どこをどう見てお前はその人間が持つ背景を読みとろうとしているのかってことを言いたいのだ、俺は。
高校2年時、何かを話す友人もなかった俺はハイルナ―と同じように周囲をバカにした高二病に罹っていたが、もうすでにそのときにはSMポジション論、古い言葉で言えば「陰キャラ」とか、教室カースト制度みたいなものが出てきていて、それらすべてをくっだらねと唾吐いて一人で本を読んで暇していた。しかしもう世に出て広まる程度にはスクールカーストという言葉は浸透していても、やはり教室でポツンと一人座っている人間がいることは想像しがたくない。今ではケータイも普及してそれが代わりとなっているだろうが、それなりにけっこう自分なりに悩んでいる人がいると思う。また現在進行形のわたしの世代の中にもそういった人が知らず知らずのうちにいるだろう。自分だって、何かが間違えばハンスのように、あるいはハイルナ―のように学校を去るようになったかもしれない。この話の最初のように本の一節にヘッセの心情として出てきた一文を添えて、この話は終わりにする。

しかし、内心の反抗のうちにみずからをすりへらして、破滅するものも少なくない―その数がどのくらいあるか、だれが知ろう? p119

今の自分から見た当時の自分

これは前のエントリであるあの日のひねくれ系思想ぼっちは救いを乞ひて - なんだろう、俺の発見伝にも書いていることなのだけれど、やはり、じぶんのものは大事にしろという訓戒を両親から受けた自分としては「過去の自分の魂の叫びみたいなもの」「中学高校時代の声に出せない悩み」は大事にすべきものだという認識がまずある。自分の見たもの、聞いたものがすべて、世界のすべてと感じていた頃というのは、年月が経てばアホらしくもあり、無知らしくあり、成長性もないようにも見える。だから高校2年にハンスと自分を同一視したり、ハイルナー的に高二病を患って「理解されないことに満足を感じ、呵責なく、侮蔑な僧の句の中で小さいユヴェナリスきどりになった」ような記憶も、自分は笑うことはできない。いや、高二病の時はその過去の自分ですら嘲笑していたが、今となってはそんな笑いは、人に話す時はできても、自分自身に対してはできない。ではなんでそんなことをするかと言われると、簡潔に言えばその時その時の自分がそれなりの真剣さと真面目さ真摯さとをもって考えた末の行動行為だから、そのように誠実に何かと向き合った人間を笑えないと言えるが、もう一つ別に答えもある。

茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」という詩がある。高校2年の冬に読んだ「教科書で覚えた名詩」という本(だったはず)に書いてあって、正月の実家に帰った時に本棚を掃除していたときにその本を読み返したが、当時読んだ時とてつもない衝撃と喝と激励をくらったことをこれを書いていると浮かんできた。

教科書でおぼえた名詩 (文春文庫PLUS)

教科書でおぼえた名詩 (文春文庫PLUS)

なぜこの本を読んだのかは忘れたが、当時はむさぼるように家の本という本を読もうとしていたので、そこでぶつかったのだろう。あるいは母が買ってきて「この本を読んでみろ」と差し出したか。とにかく当時高2病まっただ中の自分には、ぐっさりと、ばきばきと、音を立てながら、唾棄すべきものからの侵入を防ぐ自分の心の殻に、割って入ってくるものを感じた。取り繕った何かが壊され、全裸にされた気分にもなった。そのくらいの凄まじさ、キレ味の良さ、破壊力。真っ昼間の掃除中にもふと読んだだけでも衝撃を食らうくらい、きれいな詩だと思う。今こうして書いている時に、その詩の一節を口ずさむだけでも。そしてこの詩を初めて読んだ当時はその高二病的に乾きつつあった心がぐらっと揺さぶられ、思わず泣いてしまった。泣きながら何度もその詩を声に出して読んだ。はいはい、キチガイキチガイキチガイですと、チャカポコチャカポコ。

とまあ、そのくらい感銘を受けたので、そういうわけでそれからの自分は、感受性を守ろうとした。感受性とはその文字の通り「感じ、受ける性質」のことだ。平坦な言葉に均すと「感覚」だ。感覚は感覚器官で刺激として生じ、脊椎や脳に刺激として送られる。それによって人間は喜怒哀楽を感じたりいろいろ考えたり動かされる。その感じ方を如何するのは人間自身で「感受性」もそれで左右される。人間に一番その「感受性」が強く影響するのがこどもの頃であり、小説の中ではハンスが気楽に釣りを楽しんだり、ハイルナ―が湖の近くの情景から詩句を練ったりするところとして出てきている。彼らの思想の一片としてそれが出ている。「彼ら」と書いたがハンスにも感受性はあった。ただ、それを表に出さなかったか、あるいはその表出させる術を心得なかっただけだ。そしてそういった感受性は勿論だれしも持っているし、持っていた人もいる。私自身は感受性を持っていたかった。子供や中二病患者が考えることだと嘲りを受けると思うが、別に構わない。理屈はない。自分が大事だと思うものに理屈なんてあるものか。中二病で結構だ。とにかく自分の中のハンスやハイルナ―といった「感受性」を守るためには、救うためには、助けるためには、どこかで今との軋みの末の昔の自分の叫びを吐き出す必要があった。高校の時はそれが紙の切れ端の手書きメモであり、ケータイのメモ帳であった。そして改めて考えると第三の手段として、ブログがそれの役割としてあると感じる。
げろしゃぶ (id:grshb)くんのエントリやシマウマ (id:smum6287)くんのエントリでは、ハンスは「犠牲となるべきアルターエゴ」としてだったり、ヘッセの中のハンスを殺すことでヘッセ自身は生きながらることができたのでは、というようにハンスの死にメタ的な意味を持たせている。それもわかる。そしてこれまでもおそらく読者、評論家に様々な意味を持たされてハンスは死んできたのだろう。ハンスは何回も死ぬのだろう。「ライフはゼロよ!」と止められることもない。ハンスにはそもそもライフなどないのだ、役割として死ぬのだから。だが、実際、自身が「ハンス」を如何するかという状況に追い込まれた時、ハンスをその評論、感想のように安々と殺すか、それができるか。バランスとは、全く、いい言葉で、それができたら苦労はしないが、うまい人はそれができるんだろう。巻末解説を読むとヘッセ自身は苦労をしながら独力でどうにかしたらしい。最後を締める言葉として、上手くは言えないけど、僕個人としては「パサパサ乾いてゆく心」にも水をやっていきたい。

というわけで、ここまで読んで「自分の感受性くらい」を知らない人はその内容に興味が沸いたかもしれないけど、ここでは「敢えて(太字)」書かない。読んでみる気があるのなら少し検索すればすぐ出てくるので、詩を読んだ人がいれば、知っている人がいれば、コメントに何か書いてくださるとありがたいです。

自分の感受性くらい

自分の感受性くらい

18:08より追記
とここで終らせようとしていたわけだけど、何かが喉に引っかかったように感じたので、早めの風呂に入りながら考えていた。で書き残しがあることに気づいてもう少しがんばってみるというところ。
いや、別に、ハンスはホモ。みたいなことを書こうというわけじゃない。いや近いかもしれないけど。
物語にifを唱えるのは野暮というものかもしれないが、やはり当時の神学校っていうのは男の子しかいない、男子校みたいなものだということが前提になければ、ハンスが神学校を去った後でエンマに会うことがないということだ。
もし男子と同じ数程度の女子がいれば、ハンスはどうなったか。変わらず勉強を放棄して神学校を去り最終的に溺死してしまうだろうか。もしかするとより早く生命が急落していったか。どうなんだろうか。わかんないけど、少しは変わりそうな気がするんだが、諸君如何