なんだろう、俺の発見伝

タイトルは友人の案。

あの日のひねくれ系思想ぼっちは救いを乞ひて

 購読中のはてなブログを読んでいると、ある界隈でサブカルとオタクについての言論プロレスみたいなのをやっているのを読んでしまった。その下らなさ、どうでもよささ具合の影響で、ものぐさ度3割増し、やさぐれ度6割増し(※当者比)になって、逃避のためのネットから逃避するために現実に再び戻って「おそら、きれい。あぶらえみたいみたいなそらだなあ」とうわ言をのたまうはめになってしまった。
 個人的にサブカルとオタクのポジション論の罪は重い。
読んだのは以下のブログでこの順。ただし別に攻撃するつもりとか敵対的な意図はないです。

サブカルチャーへの愛という憎悪 - ロックンロールと野球とラーメン

サブカル・イズ・ノット・デッド - あざなえるなわのごとし

サブカルチャーへの愛という憎悪 part2 - ロックンロールと野球とラーメン


 そもそもネットでは「反応したら負け」というか「気にしたら負け」みたいな暗黙の了解があって、それについて言及しなければ別に、ネットで自分の弱みを晒すこともなく、日々平静を保っていけるわけだけど、そう人間毎日精神が安定して屹立しているわけでもなく、いわんや青年期における精神のブレ幅をや(反語
 そんな状態で、普段読んでるブログでサブカルの定義、オタクの定義云々カンヌンを論じているのを見て、
「じゃあ、詠みはしないけど詩が好きな人はどのカテゴリーに属するのですか」「物語が好きな青年は単に文学青年でいいのか、黒板にノートの落書きを公開処刑された文学少年は成長してもそういうわけでしかなくなるのか」「どの時代も好きで、いろんな視点から歴史を俯瞰して、斜め読みしていろいろ想像するのが好きな歴史趣味野郎はサブカルなのか」とかいろいろ疑問が生じて、つらくなった。「僕はジャックのブロークンハートです」*1
上の疑問は全部過去の自分の魂の叫びみたいなもので、中学高校時代の声に出せない悩みだった。別に辺境が好きとか孤高主義指向を持っているわけではなく、長じていくうちに、世の中という大きな波に動かされる中で自分なりの選択をした結果、知らず知らずのうちに自然と周りに誰もいない、そんなところへ流れ着いてしまったマイホビー。いわゆる「ハミ出し」た。まあ、選択した以上自己責任なわけで今の私は、まあ人生そんなこともあるよねくらいにしか思ってないけど、当時はそのことに気づいてからは毎日の精神状態がムンクの叫びで、直視するのが嫌になって高二病を患ってより孤独を貫こうとしたり、倫理の教科書に逃げて必死に実存主義を身につけようとしたりしたっけな。
要は賛同者とか、せめてこの気持くらいは分かってくれと承認が欲しかったためにそんなことをしていた構ってちゃんである。そういう救いを求めていたので、「レ・ミゼラブル」のジャンバルジャンが他人ごとではなかったり、バガボンドの武蔵に傾倒してた。高二病中二病一緒くたに罹患してた感じ。
 でもこういう孤独感って、なんだかんだみんな持っているものじゃないですか。
 それがわかっていても今でも上のようにたまに昔の自分の考えが出てきてしまうけどこれもしゃーない。たまにこういう感じで何か書いたり、本読んだりして、音楽聞いたりして昇華させて供養させて時間経てばそれも忘れる。
まあ、そんなこんなでやはりポジション論はまず例外に目が行ってしまうけど、それはイカンよなあと思う次第。というところで「やっぱり演じるって大切やな」という方向に持っていって晩飯を食います。