なんだろう、俺の発見伝

タイトルは友人の案。

やれやれ、そして僕は自意識をこじらせるのであった

最近俺界隈で「自意識」と「当事者意識」と「論理的整合性の元での行動」という言葉が流行っている。カミュの「異邦人」の読書会のまとめを書くより前から思っていたことだけど、まあ別に誰かに伝える必要もないだろうと考えていたことが、ここ数日の内に読んだ記事に土から掘り起こされるようになった。


「異邦人」の主人公たるムルソーの思考についてここでまた簡単な説明をしておくと、ちょうど友人げろしゃぶ (id:grshb)氏の日記に良い文章が合ったのでそれを掲載。

彼は彼なりのイデオロギーのなかで論理的に考え、その価値基準に照らし合わせて正しいことだけをしてきた。それは彼が処刑を受ける前の最期の独白において彼自身の口から明言されていることでもある。
http://grshb.hatenablog.com/entry/20131212/1386827284

ムルソーの殺人の「太陽が眩しかったから」という動機も傍から見れば、こいつ気狂いなんじゃあねえのかと取られてしまうのも無理はないけど、彼は「彼なりに正しい」生き方をしていた。
ところで、私の中で結構大きな社会的話題が就職活動なわけだが、内心あんまり働きたくねえなぁとか考えつつも、仕方ないにゃあ…とモソモソと動き始めざるをえない状況に近づいてきている。私以外の多くの大学3回生も同じ程度は違えど状況
は同じものだろう。たぶん。リアルでも、事実12月に入ってから危機感は増した人も見たり見なかったりする。ジュウニガツイッピになにやら自己分析を始めた大学の友達も少なくなかった。大学のPCルームに行くと、艦これやマインスイーパ、ネット麻雀が画面を賑わしていた日もいずこ、今日ではマイナビ、リクナビ、就職ナビ、各地方求人サイトの面々がズラーっと、ズラーっと横に並んで、それを眺める生徒の、少し猫背気味の背中、画面を凝視する眼がこれまたズラーっと。正直言ってPCルームのえげつない雰囲気に飲まれそうになって「もしかして俺がおかしいのでは」と思ってしまうほどだった。いや、おれがおかしいのは「大学3年の冬は就活開始」という「常識的」価値観からすれば間違いないわけだ。ただ、私にだって危機意識が多少なりともあるわけで、これからの方針のことを両親と話してきたりもし、自分なりの主義主張を付け焼き刃に映るかもしれないが、それなりの道理の元に作ってき、それに沿った企業を調べもした。その点でPCの前で自己分析、企業研究に励む学生と私との差異はない。皆危機感に苛まれた上での行動を取っているのだ。

そんな考えが頭の隅に残っている状態でこのブログ記事を読んだ。
人生は練習と思ってる所が本番で、本番と思ってる所がオマケだ。 - teruyastarはかく語りき

これにある「危機感駆動型」と「希望駆動型」の説明、そのあとの「人生版ドラゴンクエスト」と「ゲーム版ドラゴンクエスト」の違いを説明した部分でかなりHPごっそり持ってかれた。「人生版ドラゴンクエスト」がクソゲーすぎるから動こうとしないし、でも時間は迫ってきて結局「危機感駆動型」な動機付けになってしまうのだ。そういえばマイナビから送られてきたDMで有吉弘行がスーツ姿でネクタイを占める姿勢で、横に「やるしかないから、やるしかない」というコピーがつけられた冊子が届けられ(今も手元にある)、ぶっちゃけ「てめえにだけは言われたかねえよ」と心の中で呟いていたが、このマイナビのコピーこそ、現在の就活生の心情の一片を如実に表していると言える。実に不愉快極まりない、いやこっちが悪いのは十分承知の助だけど。
しかし実際問題、たかだかお手軽だからとPCサイトの自己分析や、短期間の内省によって見える自分の内面など、20数年の生涯のごく一部を切り取った断面でしかない。それを人生の岐路といえる選択の時期に使おうというのがどだいばかばかしく、やっちもない話しだ。俺の将来に対する主義主張でさえ、そんな長い時間じっくり考えてきたものでなく、たった2週間の間に一応形を整えた上で示した一つの解でしかない。上述したムルソーのように、常に自分なりに考えた論理で正しいことだけをする、論理的整合性の元での行動のようにはなれなかった。常に打算と機会主義が頭の上につきまとっていた人間が私だ。いくつかの理屈をこねてそれっぽい論理を開き、詭弁を弄し、醜い自己弁護を行っていたに過ぎない――

と書くだけ書いたわけだが、ここで一つ落ち着きを取り戻して、現実に返る。その時間は刻々と進み、ここまでを書いているだけで2時間は費やした。んなことする暇あったら企業のHPの一つでも見ろっていうのが意識の高い学生だろうが、生憎その性分ではない。こんなの書く暇あったら寝ているくらいには意識をなくす学生だ。
ともかく現実に返る以上、「人生版ドラゴンクエスト」をプレイしていくしかない。が、まず自らの動機の拠り所だった「危機感型駆動」とどう向き合うかが焦点だ。この意識の根底に近いものをどう解釈するかで進む道は2つ。「危機感なんかに左右されるか。俺はやりたいようにやるんだ」と危機感型駆動を否定して生活するか、「危機感はある」と危機感型駆動を肯定したうえで生活するか。
これは要するに自分のイデオロギーに従うか従わないかの二択になる。危機感型駆動を否定してこそ自分の正当性が証明できるとするか、危機感型駆動を肯定して「私は何も考えてませんでした。イデオロギーなんてありませんでした」と自分の価値観を捨てるか。


どちらも正しい主張のように見えるし、どちらも正しくないようにも見える。
危機感型駆動を否定する方は自分なりの論理ですべて行動するムルソーの考えに近いように思える。そのまま突き進めれば死刑を受けかねない。かたや危機感型駆動を肯定する方は「じゃあ何を信じればいいの?危機感?」となるようにも思える。この選択を選ばざるを得ない時期に自己の根本が揺らいでしまっては、他の事すべてが定まらなくなってしまうだろう。この2つの内どちらを取ってもなんらかの悪影響を受けかねない。どうすべきか。


ところで、げろしゃぶ氏に借りた「完全教祖マニュアル」という本の一部を引用する。「完全教祖マニュアル」という本はその名の通り、教祖のための教本のような本だ。ここではこの本自体にはそんなに言及しないので、どこか他の書評サイトか、本屋で手にとって読んでみることをおすすめします、特に教祖になりたいあなた。
この本の中では、「悟り」という行為をなるべく平易な文で表している。

「悟りというのは要するに『あなたの脳みそがどうにかなった弾みで起こる現象』なんだと。乱暴に言えば脳みその錯覚現象です(まあ、悟った人に言わせれば我々の通常の脳みその働きの方が錯覚なわけですが)。」p128

「悟り」というのはこの世の真理や答えというものだと思いがちだが、本書ではそうじゃないと切って捨てている。そもそも宗教というのが「人をハッピーにするもの」と捉えられて書かれている。要は個人の受け取り方次第で宗教は毒にもなれば薬にもなるということだ。この本は宗教を「作る人間側」から説明しているので、宗教がなぜ生まれたかについてもやさしく解説している。大丈夫です。本書を信じなさい。本書を信じるのです。

この本の言に従えば、「悟り」という概念自体、脳の錯覚でしかない、いわんや一般人の思考をや、ということだ。ここで本題に立ち返ると、2つの考え自体は脳の錯覚が起こしている思考の一つにすぎない。自分の正当性を尊重しようとしようがそれも錯覚、危機感駆動を肯定して自分の主義主張などなかったと思っても、それもその個人の錯覚なのだ。就活というのも大学生が社会にコミットメントする過程の一つにすぎない。資本主義社会なんて歴史的に見れば200年前後そこらしか経ってなく、200年前後の時間を経てみんながみんな資本主義社会を唱えるようになったにすぎない。これの一種の宗教だろう。
と、なればだ。そもそも自分なりの主義主張や、それに基づいた価値判断自体自己の脳の錯覚でしかないのなら、どうすればいいか。資本主義社会は、多くの人がそれに参加してハッピーになったから、受け入れられるようになっていったし、そういう人が多い国自体がそれにあわせるようになった。資本主義社会が世界的に席巻するようになって、そうでない国々が相対的に立場が弱くなり、ソ連のペレストロイカのように、自分のイデオロギーを捨てて、それに参加していった。ひとこで言うと「社会」自体、集団錯覚で成り立っている社会なのだ。その渦中にいる人間ならば、どのように動くべきだろうか。
どのように動くべきか、と書いたが、それについての明確な答えなんてない。周りの人に言わせれば「何お前外巻きで突っ立っているんだ早く輪の中に入れ」というところだ。それを良しとしなかったらムルソーとなるだけ。ただ、こういう動きをしてもいいだろうくらいのことなら私でも書ける。そして私の考えも錯覚現象の一つでしかないのだから、読んでいる人は気にしてもしなくても構わないんだ。
周りの錯覚現象に参加するか、自分自身の錯覚に陥るかの選択は、どちらも取ってしまうほうがハッピーだ。と考えたほうが気が楽だ。くよくようじうじするよりかは一秒でも速くハッピーな気持ちになっていたい。苦痛より快楽を求めるのが本能的だ。清濁併せ呑むという言葉があるが、これは中国の漢の時代に清流派と自称した政治批判派と、彼らが濁流を難じた既存の宦官やそれに結びつく政治家が所以となっている。(と思っていたがぐぐってもソース出てこないし、違うのかもしれない)心が広く、善でも悪でも分け隔てなく受け入れる、という意味の言葉で、俺の考えは一言で表すとつまりこれになる。自分自身結構短気なとこもあり、その怒りも自分なりの正当性を示そうとしてのことで、それを省みるためにも度量が大きい人でいたいと考えているからだ。そして他人に自分の正当性を押し付けたところで誰も分かってくれない、というのが考えの根底にあるように思う。仏教で言う、輪廻転生という前提みたいな感じに思っている。事実ここまで書いたところで誰も分かってくれないだろうというのが本音だあり、別に誰かに分かってもらえなくても構わないと思っている。わかってもらえたらそれなりに嬉しいけれども、別に分かってもらえたくてこれを書いているわけでもなかった。

とにかく別に2つに1つを取るように生き方を制限されていることもないし、現代の社会において選択の自由という概念がまかり通っているんだから、2つとも取るという選択がダメということにはならない。そのほうが俺自体はハッピーになれる。
「危機感型駆動」でもあるし、就職活動を行うこと自体には何も考えてなかったが、それとは別に俺自身の考えもある(短期間の付け焼き刃程度のものでしかないがないよりましだ)と考えたほうが気が楽だ。
矛盾していると思われるが、そう思うなら俺の気が狂っているっと思ってもらって構わない。この考え自体「完全教祖マニュアル」で言えば脳の錯覚現象だ。思いたければそう思え。矛盾で結構。詭弁家で結構。変節漢で結構結構。俺自身は内心ハッピーだからそれでいい。

自分なりの主義主張で、その価値判断のもとに行動するのなら、俺とムルソーの間に何も違いもない。違うところは自分の価値のみを優先するか否かだ。


と、ここまで書いたところでタイトルの一文に戻って終わる。