なんだろう、俺の発見伝

タイトルは友人の案。

呪いと檻と7月3日の午前1時とか2時とかその辺りに書いてた記憶がなくもなく

読書会の「悟浄歎異」の絵画終わって考えたことがある。今からそれを書く。
物語の中心人物はだれか。言うまでもなく主人公だ。主人公が動くから物語が動いていく。この世界では誰が主人公か。主人公などいない。群像が動いているだけだ。
では人生ではどうか、誰が主人公か?自分、と答えてよさそうだ。とりあえず、語るも動くも自分の意志からやってるんだから、自分の人生は自分が主人公でいいと思う。こうややこしく考えるのは、世の中にありふれた感じで使い古された言葉で上と同じ意味を言おうとしている言葉の群れにうんざり感と、使い古されたものじゃなくて自分で表現したいという偏屈な欲による。お腹が減った。空気が腸内をグルグルと移動しているのがわかるくらいお腹が減った。
自分の人生の主人公は自分。そういいきれそうだが、今の自分は人生という物語の主人公として動いているだろうか?見知らぬ家に押し入ってタンスの中調べて金を見つけたりしているだろうか、いやそうじゃなくてもなにかしら物語にはゴールがあるのだから、それに向かって…いや、何もせずともゴールはしようと思えばできるかこの場合、そうじゃなくてだな……あ、誰が言ったか忘れたけど「人生はセーブポイントのないエロゲ」という言葉がある、あと汎用的にエロゲの部分はクソゲーに変わったり、良ゲーに変わったりすることもある。この喩えを引いて、人生はゲームだとする。ゲームなんだから終わりはある。ハッピーエンドのゲームがあれば、ドラッグオンドラグーンのようにバッドエンドで終わるゲームもある。ゲームなんだから物語がある。その物語を進行させるのが主人公でありプレイヤーである自分である以上、は主物語のハッピーエンドもバッドエンドも自分にかかっていると言えそうだ。これはよく聞くことでもあるから確かであるだろう。俺の勝手な推論より確実性が上だ。
ではその物語をハッピーエンドにするために主人公は動いているのか。いま書いていて思ったけどハッピーorバッドだけで表せないゲームもあるじゃないか、そういうのは主張をゲームで言わんとしていると(ちょっと証明するのだるいから)ひとまずしておこう。さっきの問に加えて、そのゲーム、物語から何を主張、言わんとしているか?それを表現しようと主人公である自分は動いているのか?これがひとつ。
もう一つを書く。
今自分が属している組織での役割は何か。それがあるのならば、やくわりがある以上、その組織が動いていくために必要な役割だろう。その組織では自分の役割の他にいろいろな役があり、いろいろな人がそれを請け負い、役割に沿った行動を取っているだろう。
ここで上の一つ目との関係性が重要になる。
人間誰しも小さい頃少なくとも小学校では、自分が世界の中心だという感じで過ごしていたことがあると思う。大きくなると、その考えでは立ち行かなくなってしまう、ので考えを変える。組織に適合していくために、役割を演じる。
ここで「悟浄歎異」が出てくる。物語の主人公は沙悟浄だが、本来「西遊記」では沙悟浄はそこまで存在感はない。大きくとあげられるのはたいてい孫悟空か三蔵法師あたりだ。だから組織の大きい部分を占めているのはこの二人といえそうだ。「「西遊記」では三蔵法師が天竺へ行くという物語である以上、主人公的な位置にいるのは三蔵法師だろう。沙悟浄ではない。悟浄歎異」の主人公である沙悟浄は他三人を観察し、分析する。分析の末、三人の持ち味がわかってくる。わかってくるゆえに彼我の差を感じて、「平穏無事のときに悟空の行き過ぎを引き止め、毎日の八戒の怠惰をを戒めること。それだけではないか。俺のみたいなものは、いつどこの世に、生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?」
沙悟浄の屈託がこれだ。しかしこれは私達にもあることだ、組織の中心的人物ではないということは。観測者は対象から離れて観測しなければ、観測者たりえない。俺の場合、この認識はいつのまにか生まれた。高校の時に、文系のクラスのため男子は10人そこらの小数だったから、自然と10人のままで動くことが多かった、のだがその中でも個々人に役割はあり、俺の役割は、簡単にいえばツッコミ役、沙悟浄の立ち位置に似ていた。
 
頭のいい読者諸兄は俺の言わんとすることがうすうすわかってきたと思うが、書いている本人が鳥頭ゆえに少々脱線したり回り道するかもしれないけど許して下さい。
2つのことを書いた。描こうとしている物語を描く行動はしているかということと、組織の中で観測者にとどまっている現状の自分をどう自分は考えているかということだ。
そして根本的に俺が言いたいのは上の2つを踏まえたうえで、
現状の自分の行動と今いる組織での現状の役割からの行動は、同じベクトル、理想とする物語を描くための行動となっているのか。
ということだ。
俺はなっていない!というか理想の物語なんて全然考えてないいいいいいいいい!!!!!
 あああdsがれgrhtshtryじぇtdjくいhfrちtydjrshれy
ゴホン、ゴホゴホゴホ、あ、あー失礼。ちょっと猫がね、キーボードの上に降ってキヤガッタノサ。

ともかく、なんでこんなことを考えたというと、昨日の読書会で面白い言葉が出たからだ。「役割の呪い」、「役割の檻」

「役割の呪い」というのは沙悟浄でいうところの悟空の引き止め役、八戒の戒め役と言った「与えられた役割の範囲の行動しかできない」ということ
「役割の檻」というのは、組織が出来上がっていく中で、知らず知らずのうちに、無意識のうちに、右も左も何もわかっていないうちに、自分の役割が決まっていっていくこと、そしてのその役割とは違うことをしようとしても、その違うことを他の人がしていたり、違うことをしようとするのを引き止められたりして、やりたくても自分の役割以上のことができないということ
後者のは沙悟浄よりは読書会面子の個人の経験によるところだ。
2つともほぼ同じ事を言ってはいる。でもその差は、小さいかもしれないが、かなり大きいサではあると思う。
 
 

あれ、ここまで書いてみたけど、で?って内容で我ながら困ってる。
もう一歩踏み出し切れてない感がつおい。
マア、とりあえず書き出せるだけ吐き出した感じあるからイイカナ。
ということよ、こんなややこしいこと書かないとすぐ忘れてしまうような鳥頭だからメモってことで。