なんだろう、俺の発見伝

タイトルは友人の案。

文を借りて

書いてみようと思ったわけは友達の日記に逆感化された、という単純明快な偏屈から始まった。とはいえいかんせん、のっけからそんな芸当ができるとは自分でも思っていない。こんな塵のような俺ごときが「我輩は猫である」やら、「 ある日の暮れ方のことである。一人の下人が、羅生門の下で雨止みを待っていた」とか、「メロスは激怒した」とか有名な序文の力を借りて日記を綴ろうなどというのはおこがましいことこの上ない。猫でもなけりゃ(なりたいとは常々思っているが)、下人でもなく、激怒してもない。激怒するようなことがない生活もどうかと思うこともあるが今のところ平和ボンボンだ。
それはともかくとして ―そもそも「文を借りる」と言ってもどう借りればいいのかわからん。わからんのにそれに挑戦するとは私はなんと阿呆か。「浅学非才の筆者には、その実力と資格に欠けるのである(『自家製 文章読本』より)」と書いた井上ひさしの気持ちが何となくわかる、文脈は全然違うわけだけれども。なにぶん、借りる場所となるバックグラウンドが全然整っているどころか更地でも雑草茂る荒野でもないそもそもその場所がほぼない。
しかし私の頭の中は確かに色とりどりのお花畑ではあるはずなのだ。この二年と半月、無駄に無駄な生活を繰り返してきたわけではない。なので少し土を掘ってみて何か出てくるのでは。というわけで今五秒で思いついたことを書き留めると、「やはり俺の青春ラブコメはまちが―五秒経った。タイトル長いよ書けねえよ!!! ―茶番はこのくらいにしといて、少し真面目に書いてみるか。思いついた単語を少し羅列してみる。
型取り、オクラホマ、修辞術、明太子マヨネーズ、う○こ、卒論、餃子、鼻セレブ
ざっと約一行分上げてみたが、なんだこれは。どういうことだ。後ろ2つはさっき目についたものじゃあないか。俺のお花畑は餃子程度のものに侵略されるほどのものか。無意識的に排泄物単語が出てくるのもおかしいだろ常識的に考えて。私の精神年齢は6歳程度で止まっている可能性がある。脅威のマイナス14歳差、アンチエイジングもびっくりだ。いかに俺の無駄で無駄色に染まり無駄を究め無駄に無駄を貪る生活の効果がいかに凄まじいかの証明になった(必死の虚栄)。
修辞術はさっき取り上げた本に書いてあることで、以下餃子までは俺の生活に馴染みがあることだ。う○こは人間全員が馴染みあるモノだし。うまくいったのはオクラホマまでか。
しかし「型取り」と「オクラホマ」、いったいどういうことだってばよ。「オクラホマ」はなんとなく出てきた理由がわかる。思いついたことの名前と違う名前を書いているからだ。今確かめると「ハナモゲラ」だった。ハナモゲラ和歌という言葉遊びみたいなのをタモリがやっていたんじゃなかったっけ?なぜかそれを思い出した。
次に「型とり」について言及してみる。「型とり」とはなんぞや。文字通り型を取ること。何かの複製・剥製・標本を作るときに主に使われる。有名人の顔に似せたマスクがロフトに売ってたりするけど、もしかするとああいうのも、有名人の顔から直に型とりしているかもしれない。まあ、適当にタタタっとキーを打った結果出てきた単語だ。深層心理と何か関連があるかもしれんが俺は「精神分析入門」を読んでもいないし持ってもいない。「知らないことは無知だ」とソクラテスは申しているが、世の中には「語り得ぬものには沈黙しなければならない」という、俺のような中途ハンパ者の背中を押して堕落へ落としこんでくれるありがたいお言葉がある(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考」より)。というわけで言及は終わり。脱線しすぎた感があるが、話を戻す。
上の実験とも言えない悪戯は「小説家を見つけたら」で出てきたウィリアム・フォレスターの小説の書き方をオマージュした友人の日記をパクった出来のワル―いものだ。どうやら俺にはできない書き方のようだ。ここまで色々引用する文やら、「型とり」のことやら、「論理哲学論考」やらをインターネットで調べてから書いている。勢いは無いのだ。そして、冒頭からここまで無意識的に3回は読みなおして、修正を加えている。俺には勢いで書くのは無理なんじゃないの。少なくとも意識的に勢いで書くというのはできないんじゃないの。魂のステージがそこまで至ってないんじゃ ―ということを書く前から想像はしていたのだ。見事結果は予想の範疇を超えず、大数の法則は乱れず、天下快晴(言うほど晴れてなかった)ということになった。
ようやっと、タイトルに戻ってきた感がある。思えば長い旅をしたものだ。と、イカンイカンまた最初から見かえすところだった。(この門癖の悪さはどうしようもない気がするがいつか絶対門壊れるからほどほどにしないと(「推す月下の門」「敲く月下の門」))
要はあれです、石橋を叩いて叩いて粉砕して粉々にしてその瓦礫をコンクリで固めてコンクリが完全に乾くまで待って強度を限界まで上げてから渡る、という性分なのかもしれない。乾くのを待っているうちに死にそうだ。ともかくそういうことだから、勢い一辺倒で書くというのは俺にはまだできない。単純に経験値が足りてない気も。ここまで書くのに一時間はかかったのでは。このままだと残業社員になりそうだ。それはいやだな。
速く書きたいという気持ちはあるけど、それが行動に結びついてない。
というわけで、文を借りよう、とした、としてみた、としたみた結果、全然借りてない。借りたい。借金はしたくないけど、借文なら著作権侵害しない程度でいくらでもしてみたい。例えばだけど「今まであなたが借りた文章は5812560行です」的なシステムがどこかで構築されると面白いと思う。「そしてあなたの文章から借りた人数は云々。行数で云々。」とかなると面白そうじゃないか。このくらいできそうな気もしなくはないけど、実現可能性とかわからん。それはともかく、勢いで書こうと思ったけど全然できない人なんて俺以外にもいっぱいいるはずだ。そういう人たちは日頃から(俺含めて)文章を書いてないからで、そういう中でポッと出の大学1年生とかがレポートをどう書くかで悩み、本屋にある「優の付くレポートの書き方」とかさもありがちな本を手に取るんだろう、俺も取った。ちょっと悪く書いたけど、そういう本でも引用の仕方とかはちゃんと書いていて、「著者、出版社は絶対」とか「参照ページも」とかひどいと「もしこれを読んだ上でレポートを書いたのなら、この本も参考文献にあげてもらえるとありがたい」とか、いや最後のはないか俺の意地の悪い想像だし、ないよね?
話は結構ずれ込んだけど、引用の仕方はどうにかなった。つぎは何をどう引用してどう繋げるか問題がある。ゆとり世代筆頭のゆとりと半分くらいは自負している私だからこそ、この問題には常々頭を抱える。引用する本がないわけではない。一応一読はした(積ん読以外は)。内容は全然覚えてない。―というのがだいたいだが、一応確かにちゃんと読んだ本はある。メモもして、エバーノートに保存した。やはり、そのくらいしないと本の知識が生かされないのだろうか、というか俺の頭のメモリが少なすぎるのでは、昔の人博覧強記と呼ばれた人凄すぎるだろ人外じゃねえの戦前戦中戦後の人たちやばすぎだろ、あ、やはり自分自身のあれですよね、はい、ごめんなさい。読みます。
 
「引用するべき文献」で検索っと(カタカタ
 
と、ここで筆者は筆を置こうと思う。腹が減りました。あと映画20本借りたからそれを見ないといけない。ちなみにこのあと筆者はこの文章の締め方は志賀直哉に倣った暗示的看過法という「最後のところで省略するように見せかけておいて、じつはそれについてたっぷりしゃべっている」という修辞法でこのように締めようとしていると書こうとしていたが、もうお腹が空きすぎて背中とお腹が同一化しそうだわ、サザエさん始まるわ、よく考えたら晩飯何も考えてないわで、取り急ぎ晩飯に取り掛かろうと思っているのだ。なんとなく休日は外で過ごしたいけど、読書会映画会で使う費用も馬鹿にならないので今日は控えようか迷っている。でも、5月だったかにもっと多様性を!と方方を開拓したはずなのにそれを有用しないのは個人的にもったいないと思うからで、まあ、日曜夜は外で過ごしたいと思ったのも今日が最初だ。遅くても11時ごろには帰るつもりではある。そもそも外出するかもけっこうどうだか、微妙ではあるが。それというのも今読んでる本がまだ途中だからという理由にほかならない。それを外出という移動コスト、マネーコストを割いて行うか、もう部屋で読めばいんじゃあないのか。少し考えている。というわけで今回は前の所で擱筆することにしたである。 ―とこれは志賀直哉にならった暗示的看過法をならった井上ひさしの「自家製 文章読本」を日記でならったものである。