おぼえていないこともある
- 作者: W・S・バロウズ,浅倉久志
- 出版社/メーカー: ペヨトル工房
- 発売日: 1993/01
- メディア: 単行本
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死と女性の主観と、カミュの「異邦人」 - 読書会・映画会の成果報告ブログ(仮)を書いてようやっと飯を作りかかり、米が炊けるのを待っている際中でこれを書いてます。
あれは読書会のまとめにはなってないものです。タンブラーに載せたメモと補完して読んでやっと全体がつかめるようなとっちらけた書き方をしています。
正直言って私はまとめるのが苦手です。
俺は歴史は好きだけど、それも歴史を記述した人間の主観というバイアスが掛かっているもので、一つの教科書だけに頼ったような見方は本来の歴史の見方ではないと思っています。芥川の小説にある「藪の中」のようにいろいろな人間の視点から描いてこそ、その事象の本来の造形が形作られると考えています。客観性を求めるには、その視点の数が必要です。
今回の読書会のまとめを任されても、自分には客観的なまとめなんて書けないと思ってました。どだい読書会約7時間の内方々に散らかった話題一つ一つを取り上げるだけでもかなりの作業となる。すべて掬えるわけがない。だから個人的に取り上げたかった物のみを書いた。もう別に他の何が抜け落ちてようが気にしなかった。何を重要と思うかでさえ差異が生じるのだから。ただし
前回の読書会の内容をまとめてもらいました / まとめてもらっといてあれだけど亜空間で千本ノック受けてるような読み心地だった / “死と女性の主観と、カミュの「異邦人」 - 読書会・映画会の成果報告ブログ(仮)” http://t.co/qMTdC8Ncnb
— げろしゃぶ (@grshb) 2013, 12月 11
とあって、なんか悪い書き方をした気もなくはない。文面上では、けっこう自分自身満面の笑みで変化球をぶん投げてる節がある。映画「恋愛小説家」のジャック・ニコルソンのように。でも直そうと言い方を変えたところで「んー、やっぱり変わってないかこれ」とままなる。自分自身、結構根性腐っている自覚はあるが、それを面に出さないようにしつつも、そういう書き方となっている気がする。文は体を表しているようだ。己の性悪を恥じるしかない。ともかく人間の屑である以上、そういう人を苛つかせたり、何か思わせたりすることはすべて自分にブーメランなわけだ。人が「これだ!」と思っている球を投げるの難しい。
言い訳のみでここまで書いているあたりその屑さが如実に現れるところだけど、もう流石に疲れたんでココらへんで筆を置こう。