なんだろう、俺の発見伝

タイトルは友人の案。

ノート

「音楽」だけを聴いてるときは世界が止まってるように感じる。少なくとも、僕の世界は。

アフリカのどこかの国の、産業廃棄物が投棄されて積まれてできたジャンク品の山のような、あるいは底なし沼、良い形容詞が出てこないから単に沼でも、ともかく、触覚、聴覚、視覚、嗅覚などから得た信号がシナプスとなって脳に至り、そういう場所の入り口へ全てzipファイルとかダンボール箱とかクール宅急便とかそんなイメージとなって放り込まれて、僕のインプットの器にごちゃ混ぜに入って整理も何も付いてないような、そんな感覚を一番させてくれるのが、僕が「音楽」だけを聴いてるときだ。別に環境音とかノイズが入ってても構わない。僕が聴き入ってるならそれで、世界は動きつつも僕の中のどこかだけはずっと「受容」だけを機能させ続けて、受容のみしか受け付けない感覚を持ち続けて。
 
だいたい僕の言葉はその掃き溜めかつ吹き溜まり及び山、沼から産地直送便で無加工無肥料無農薬で口まで送られてくるから、先生には「っ九之淵くんは何言ってるのかわからない」と追伸表に書かれてたし、お父さんもお母さんも僕の話を最後まで聞いてから「わかったけど話が長い」ってツッコミ入れてくるし、ミィちゃんも「難しい話は聞くのが大変」とか言いつつ僕の話を聞いてくれるからすごかった。
国語が得意なたかし君もシリメツレツだと言ってた。そのときは尻の意味がよくわからなかったけど、17となった今はまあわかる。だから元々僕は話すのが苦手なんだろう。そんなのを感じたのがいつだったわからないけど、結局僕は話す事がめっきり少なくなって、もう5時間目も終わったのに最後に言った言葉はお母さんへの「行ってきます」だ。現実は無常。
 
話す時間が減った分、音楽を聴く時間が多くなっていったのか、その辺も細かくわかってないけど多分そんな感じで、でもピアノやギターやベースやドラムを触った事もないし、買える金も持ってないし、これからもそんな事はないんじゃないか。わからない。YouTubeのレコメンドから枝葉に薄く広く拡がりつつも、新曲を追うような事もなく、音楽雑誌ってどこに売ってんだろう。とりあえず僕は勉強しなきゃいけない。数学と国語と化学が苦手だ。
 だからかこのざまは、いやこれは別に端書きみたいなもんだし。いや違うか私小説で良いんだっけ。もう、アホくさ、臭いの、制服に移ってきそうだな自分のくささだけど。
 
それで、どこまで書いたんだっけ。どこまで書くつもりだったっけ。もういっか、ここからはフィクションで、これまでも、what my life should be?って感じだったけど、はいちゃんちゃん。
というわけで灰田君、背が僕より低いのに座高がクソ高い君が、僕の席の右前二つ目の席にいるせいでこの席からは黒板の左側隅の先生方の文字が見えないんだが、これはもう言ってみるべきなんだろうか。この国語の教科書の節々の書いてるべき事でもないんだろうが、日常的にはこの国語の「文章」に触る時間くらいしかこんな風に思った事を書いていられないわけだが、こんな事書いてるからどんどん白紙が文字で埋まってしまって、僕が書きたい言葉、書こうと思った言葉、本当に書き記したかったことが、頭のジャンク品の山から金輪際引っぱり出せなくなっていくんだけど、つまるところそこんとこどうなんだ灰田君。
って書いてる間に終わりのチャイムが鳴っちゃうンすよねー、あー高2の辛いとこねここ。

泡沫的で虚無的な懐疑がFAXぎる

暇と退屈の倫理学という本にウサギを狩りに行く人をバカにする人という例えがある。

結論的には人の気晴らしにケチつけてんじゃねーよって話であり、そんなケチ無視しとけが答えであり、お前ら他人のことなんか考えずに自分の心配しとけという警告であり、結局退屈自体がその人自身退屈な屁理屈に(側から見れば哀れに)してるんじゃないかという仮説とそれは個人によるものだろ的な反駁とこんなん考えてるくらいなら寝ろというツッコミがある。
そもそもどこに問題があるのかという発端、退屈を退屈を思わなければめんどくさい一切がかき消えるという考えがある上で、ウサギを狩りに行く人は賢いのか、そもそも原始的な習慣や文化として根付いたレベルでのウサギ狩りを無意識的にやってる人が幸せなのか井の中の蛙なのかウサギ狩りをする人をバカにする人をバカにする人とウサギ狩りをする人は喧嘩をするかもしれないし、ウサギ狩りをバカにする人をバカにする人をバカにする人をバカにする人の発生は免れないしつまり人生つまんないなって思ってる人は他人の人生すらつまんなくさせてるとちゃうかと思うが僕も多少は人生つまらんとおもてるから周りの人間にうんこ投げてるのではないだろうか誠に失礼 

AndymoriとTravisとTahiti80とArcticMonkeys、鼻歌が止めどなくつなぐ

最近Hotline Miamiってゲームが俺の中で再燃している。


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このゲームに触れたのは二年くらい前の今頃だったと思う。当時はクソみたいなノートパソコンで毎時起きるような処理落ちと戦いながらゲームしていた覚えがある。

タイトルの彩色、それに流れるこの曲、初めてプレイしてた時はこの時点でもうすでに若干タマヒュンしていた気がする。謎の得体の知れなさも逆に面白く、怖がりのくせに「怖いなー怖いなー」とより暗闇を覗いていく感じで一周するまではタマヒュンし続けていた。それに基本一撃で死んで各ステージ最初からやり直しなシステムなのもあり死んで覚えるゲームだとわかっていながら「ここまで進めたからもっと慎重に」精神で無駄に玉袋が縮んでいた気がする。

が、今はもう死に慣れすぎてダルンダルン。躓けばすぐRキーを押してリスタート。ルート少しミスっただけでもリスタート。コンボつながらなかったらリスタート。
もうこういったBGMでヒリヒリを感じながらよくわからない高揚感の中でプレイしていた感覚は戻ってこない。

あとはただ難度を増し、その達成感を満たすのみって感じの続編をこの前のセールで買ったが、まあそれはそれでおいおいゆっくりチャッチャとやるつもりだ。
今はただこの音楽を運転中に聞くのが楽しい。


ストーリー云々の考察?もうニワトリが「これから先何をしたところで何の役にも立たない」って言ってるし、もうそんなところだろ。ありのままを受け入れよう。今更面白く語ったところでそれはもう中国では2000年前に通過したことだろうし、知らない人はまだその楽しみを抱えたまま何も知らず触らず関わらず日々を費やしていくんでそれでいいんじゃないでしょーか。もうスチームのセールは終わってしまったし(12/2:AM1時付)残念だったなお前らその握りしめたはした金はクリスマスセールまでしっかりママにお預けしとけ、の?(唐突だが田舎の爺さん特有の、同調の促しをしてくるときに発してくる言葉は「のぉ」でも「のう」でもなく、「んお」に鼻にかかったような音が一番近いと思うのだ。しかし文章にして見ると不自然感しかなく、しかたなく今は「の?」と書いているが発音的には口開いたまま「んお」って言ってるようなところを読者諸君は汲んで欲しい。ところで、無意識に鼻歌しているときに曲の一節からいきなり違う曲の一節にそれとなく自然と移っていくときの想像力無駄に使ってんな感はひとしおなのだが、これは単に脳の中の楽曲リストから似た曲調、リズムを無作法に引き出している気もするが、輪にかけて鼻歌で多少のズレを誤魔化している気もするここ最近(半年)である。いかんせん働き出してから時間が、日常が加速しだした、まったくもって付いていけるわけない、君のいない世界に。気がつけばもう「翌日」が始まっているし昨日の僕は「風呂入った昨日の僕」にしかなれない。だからいつも仕事場から帰るときにステージのスコア画面の曲でも流して今日のスコアを測ってみたりして、車の中をヤニの臭いで充満させながらトイレでうんこする時間にエバーノートの落書きに書くべきメモを思いつくのも束の間、口元から煙とともに消えていくのをチラ見しつつ日常をドライブして、いつかどこかで対向車線からなにかが飛び出して正面衝突しないかと、してくんないかなと、ちんポジ同様のキープレフトでn周遅れの点Qとなりて日常の点Pを渋滞とトラブルに見舞われながら夏がいつ来ていつ過ぎたのかもおぼろげな到底辿りつけないスピードでふと湧いた映画欲でとりあえずファイトクラブとドライブとガルパン劇場版を見よう。とりあえず来年のハロウィンはフランケンシュタインのマスクと肩パッドとガタついた車と世紀末な奴ら集めてマッドマックス的アトモスフィア醸したHotline Miamiをプレイするという予定を予定を埋めるためのスケジュール帳に、足りない身長とニワトリのマスクとサソリのジャケットのアマゾン注文コードをサンタに郵便書留で送りつけて、この駄文を書き続けていくのが目下の予定じゃ。やり足りないことを続けるべきか、してみたいことをして続いたら続けてみるか、それも問題だがとりあえずDeep Coverを聴きながら羽毛布団と毛布のdopeな
間を演出してレベルアップのない日常を飾っていくにもこりゃさっさと寝た方がいいや。


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昼飯第一60分片手スマホ書き

男は荒山豪太。そう言った。
50絡みの、加齢臭沸き立つ管理職、というのがその男の社会的ポジションだった。家族はいない。
駅前の道路脇に9時過ぎに現れるおでん屋の常連である。
店の机にもたれるように現れては「酒…」と呟いて握りしめていた300円をテーブルの上に話し、ビールを煽り、席に座ることもなくその後すぐ去っていく、他の客からみれば妙な男だった。
会社の同僚には寡黙な人と映っていた。灰のこぼれやすいラッキーストライクを、喧騒極まりない喫煙室で元の一本の姿のまま喫いきる、静かな人。
男自体は、職務はすでに器量をオーバーフローし、伸び代の限界を感じていた。自分に対する興味も失せていき、部下に多くを求めず、口数も減っていた。守るものがなかったため、部下に責任以外全て任せ、上に謝る言葉だけ用意して毎日を過ごしていた。
そのため時には成功もするが失敗も多かった。が、そんなことは男にとってはどうでもよかった。
悩んでいた。
大学時代には周りから書生とあだ名がつくほどに文学青年だったのだが、名前から長じたのか社会の波に揉まれてからなのか、身を包んだスーツからこう、猛々しさ、荒々しさが飛び出る中年となってしまった。
(なぜ、こうなってしまったのか…)
毎回この自問は口元の酒の残滓とともに拭い去る。
あとはただ家に帰るだけ。
趣味という趣味は大学時代にはいろいろあったがもう遠い昔の話だと、男は思っている。
今の地位に就いてからは以前より早く帰ることができたため、帰り道居酒屋を探して歩くことを習慣にしてみたが、結局溜息ばかりが行き交うこのおでん屋に落ち着いた。
(なんのために働いているんだっけな)
心に生まれた隙間を酒で埋めるが、如何せん酒に弱かった。いつもの一杯でフラフラになりながら荒山豪太は帰途に着く。
今日もそうなるはずだった。しかしおでん屋はいつもの時間を過ぎても現れなかった。
男はあるべきはず、もたれるはずの机の位置に佇んだまま困った。
周りの人間は足繁く、どこかを目指して歩いていく。同じようにおでん屋を待つ人間は見当たらなかった。
気恥ずかしさを殺して「ここにこの時間いつも来てたおでん屋知ってます?」と尋ねても「さあ…」「いや〜よくわかんないです」とそこにおでん屋があったことすら知らないような人ばかりだった。
途方にくれた男は最初はイラついていたが、次第に落ち着いてきた。とりあえず今日の一杯が飲めれば構わない。そう考えた。
普段歩かない道を少し歩いて、大衆居酒屋を見つけ、そこに入った。