なんだろう、俺の発見伝

タイトルは友人の案。

第何回目かわからない回読書会「女生徒」での雑文

読書会したのは一昨日の11月13日。場所はいつもの南珈琲店だった。

エバーノートの共有ノートにメモを書いていたけど、まだ共有されてないみたいなので、ゆっくり書いていくことにする。秋の夜長は長い。もう冬か。

 

読書会を始める前に、女生徒を読み終わって感極まった自分もとりあえずなにか考えを書いておこうと、グーグルドライブに書き散らした。以下がその内容。

 

 

 これは何歳くらいの少女の心情だろうか。第二次性長期中の14歳くらいと僕は推測する。どうしてかというと、明確に答えることは出来ない、ただ「13歳では子供過ぎるし、15歳ではもう遅い」と自分の直観に任せたことしか言えない。ところどころにある、「私はもう子供ではないの」のような主張と、「でも少し甘えたい、いけないこととはわかっているけど」という童心が、単純に自分の14歳のころと重なるだけかもしれない。今21歳となった自分には生涯の3分の2の時点を思い返しても簡単には思い出は出てこないが、女生徒の眼鏡のくだりを読んで、当時僕が言葉にできなかった言葉を読んだ気分になった。でも彼女は14歳のころの僕なんかより、物事を知っているし、それを文字に出来ている。今の俺でも到底かなわないくらいに。

 とりあえずこの物語は眼鏡をかけたことで笑われたり馬鹿にされたり、にきびが出来て、顔から血が出てきたり、ズボンのポケットに手を突っ込んで隠していた勃起を気取られたりした、そういう経験を昔にした人こそ読むべきだ。まあ、それだけじゃないんだけども。

 彼女の考えはころころ変わる。それがいい。自分の考えに頑なに執着して、殻に閉じこもるよりは断然良い。「一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみる。また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。」―それでいいと思う。何かに頼って、それの真似をして、また違う何かを頼って、というそのプロセスをこなしていかないと、自分の側から自分を見ることなんてできなんじゃないかとさえ俺は思う。彼女はよく自分を卑下しているが、それだけ自分のことをよくわかっているのだ、ただ視点が否定的なだけで。なんで自嘲できているだけ自分を客観視できているわけで。ナンジャラホイ。

 

 美醜。どうしても人間的生活を営む以上ついて回ってくる概念。今でこそ俺は「少々くらいは良いでしょ」とかいけしゃあしゃあと言っているが、7年前はそれは周りが引くぐらい潔癖だった。自分が潔癖であるならば他のやつらも潔癖であるべきだ論者だった。そんな潔癖論者でありながらインフルエンザかかった日に39度近い身体を自転車に預けてモンスターハンター2ポータブルを近くのゲオにフラフラと買いに行ったのだから、棚上げも甚だしい。潔癖ウンコ野郎ここに極まれり。彼女は汚らしいと思った後にも自分も考えれば同じだと思い、自己嫌悪に陥る。「いけなくなった。だらしなくなった」と。ここで疑問。「人間性」はいったいどちら側なのか。汚い、醜いと思っても、その生臭さを気にしないことなのか。それとも清廉であろうとすることなのか。「大多数の人間」は、汚くともそ知らぬ顔で汚いままだ。どろんと目の濁ったサラリーマンであり、厚化粧婆。「中心はずれの子」はそれを嫌っている。

 

書き途中で終わって尻切れトンボだ。

で、いまさら調べてみると

女生徒 - Wikipedia

1938年9月に女性読者有明淑(当時19歳)から太宰のもとに送付された日記を題材に、14歳の女生徒が朝起床してから夜就寝するまでの一日を主人公の独白体で綴っている。

 

 と俺の、14歳の少女だという推測は当たっていた。だからどうしたわけでもないが。