なんだろう、俺の発見伝

タイトルは友人の案。

男子三日会わざれば

友達と、多様性という言葉で遊んだ日があった。献血をしたり、なんかいろいろ周ったりした。その日のことにはおそらくTやMの日記に詳しく書いてると思う。多様性を求めて我ら三人は高松の商店街を徘徊していたわけだが、今となっては疑念がある。"はたしてこれが多様性と言えるのか"という疑惑だ。多様性というのは「言葉に多様性をもたせる」、例えばこの文でいえば表現の幅や言い回しを増やすという意味になる。今この文しか思いつかなかったが、もっと「多様性」という言葉を使う文はあるだろう。
怒るという感情の表現だと憤怒、激怒、へその緒が切れる、怒髪天を突く、などなど数々の表現言い回しがある。今俺が咄嗟に書いた以上に表現はあるはずだ。そしてこれらの表現全部は日常的に使われることはないにせよ、ほぼすべての日本人なら知っている表現だ。書けないけど使えないけど、読んだらわかる言われたらわかると言ったところの表現ばかりだ。話を「言葉の多様性」に戻す。ここで言われる多様性は「日常的には使われないけどみんな知ってるくらいの表現」というところだ。ああ、言いたいことを正確に表現できてないかもしれない。でも書かないよりはいいか。とにかく、「多様性」という表現はそういう意味を持つ言葉だ。と一応勝手に定義したうえで話を進める。
多様性多様性と連呼するのも、友達二人がゼミの先生に煽られたことかららしい。ここで、一つただし書きをしておく。俺は友達を批判・批難しようとは思ってない。逆に俺に非があること、非難されるところは山のようにあるのはわかっている、だけどその上で俺のスタンスを示す必要があるから今回これを書いてるだけだ。友達だけど、いや友達だからこそ諫言してされてしかるべきというところだ。
で、多様性の話である。というよりかは多様性を一人ではなく複数で探し求めるという行動の話だ。
結論から言うと、同一の情報を複数人が同時に取得する時点で、その情報は多様性を持ってないというところだ。今眠いから結論に至るまでの道は略す。おわり。
タイトルの話題に入る。男子三日会わざれば刮目せよ。三日の内にも男の子って変わることができるんだから、ちゃんと見てろよ女子!とは三国志呂蒙は言ってないが、まあ、そんなところの意味だ。
わjgkhれtjs;ktづm;lkhjgdrzjけtljsynああ書くのだるくなってきた。
もうすこし書こう。俺のテンションが続く限り書こう。
この故事成語というか格言というかそんな言葉は、元の背景から読み取ると、やろうと思えば、三日という短時間でも情報を仕入れ、知識を蓄え、経験を繰り返し、かつ使用応用することができる。そういう意味だ。その背景はここで書くのが面倒だからきになったらググってください。(まあ、どうせ誰も気にも留めないだろうが)
大学生なんて3日あれば具体的には言えないけど、いろんなことができるだろう。一日のうち自由に使える時間が3時間しかなくとも三日で9時間。映画6本が観える。アニメだと18話。だいたいそんなところか。アニメ1期と半分見れる時間あるならだいたいのことならできると思う。そんな気がする。
まあ、とにかく9時間、三日のうち9時間多様性を求めようと一人一人がそれぞれ行動をとれば、3人同じ行動するよりは多様性が広がる、それなりの成果はあると思う。それが言いたかった。
そしてこれは情報の共有の話にもつながる。同一の情報、経験を三人同時に共有するよりはそれぞれ異なった情報を共有したほうが、情報の幅は広がる。
 
これは俺が一人ぼっちになりたいからこう書いてるわけじゃあない。けっこう特異な意見だと自分でも思っている。孤独は愛するが、そんな次元の話じゃあない。だからなんて言えばいいんだろうなぁ。ついていけるいけないとか、ノリが悪いとかそういう話にも思えるかもしれないけど、結果多様性に括って言えば、俺は3時間で映画2本見たい。3時間で本一冊読みたい。3時間で他人と違うことしたい。そんなところかなーーーーーーーーーーー